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小池さんのお話 小野学園について。
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町あるき

大井町から品川にかけて町あるきをしました。
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[10]品川たんけん隊の集い

平成23年9月10日(土)

◆今回は、公私にわたり深いご縁のある小野学園(現・品川翔英)のお話を中心にうかがいました。

小野学園女子中学・高等学校
 私は、現在は山王と申しますけど、新井宿三丁目の熊野神社の近くで生まれ育ちました。
終戦前には当時の大井寺下町にあった京南家政女学校(その当時の小野学園)を紹介されて、昭和23年、13歳の時に初めて大井女子中学校(その当時の小野学園女子中学校)の生徒になりました。
 小野学園は、創立者である小野安之助先生が初代の理事長として昭和7年に学校を創立しました。その前身は奥様(進子先生)と共に、将来は必ず女性の社会進出の時代が来ることを予感され、大正9年に本郷菊坂町のご自宅で、近隣の子女を集めて「小野女塾」という私塾を開いたのが始まりとお聞きしています。
*小野学園の歴史については、学園創立70周年の年(2003年)に発行された「小野学園校史」に詳しく紹介されています。





 昭和20年には空襲で校舎が全部燃えてしまったんですね。それで近くの都立第八高等女学校(現在の都立八潮高校)の教室をお借りしたりして、移転先を探しておられたようでした。戦後すぐに「日本光学」の大井製作所跡地と工場の一部を購入することができたそうです。現在の小野学園の場所ですね。
私たちの入学式は買ったばかりの日本工学の工場の中で行われました。グランドは、いろんなものを埋めた後で、でこぼこして使えない状態でした。
教室らしい教室も無く、機械をどけて3人座れる木の机を並べて、機械と機械の間で勉強をしました。工場は3階建てだったんですね。そして工場の中も柱だらけでした。天井も真っ黒でした。床はコンクリート。壁も真っ黒で、どこをさわっても真っ黒、と言う感じでした。そういう中で入学式をして、勉強しながら、お掃除の時は天井まで拭いて、真っ白く綺麗にして、そのうちお掃除をする人が入ってやっと綺麗になりました。
 私が小野学園に入学したのは、その頃、進駐軍がずいぶん入って来ていて、品川の方にも助学校がありましたけれども「電車で行くのは危ない」と言うことで歩いていける学校をと、親が探してくれて入学しました。
中学校に入った時は「大井女子中学校」と言う名前になって、着ていく服は、大井高等家政女学校(小野学園の前身)に通っていたお姉さんのお下がりのセーラー服(青い線が入っていて、青いリボンのついた)を着て通いました。





 その後、ベビーブームの影響でだんだん生徒が増えて、私の高校時代は中学と高校だけで、3,000人くらいいました。本当に嘘じゃない話なんですけど(笑)
あの広いグランドがいっぱいになり並びきれなくて朝礼があっても朝の体操ができないんですね。その数の生徒が、毎朝、大井町の駅から歩いてくる登校時間が1時間くらいかかって、道幅いっぱいなって歩くので、ご近所から電話が殺到いたしました。それで、時間帯を区切って登校したり下校したりしていました。
私はその頃、雨の日とか行事の時以外は、歩いて通っていました。大森山王の坂を越えれば、すぐ学校でしたから。それで父が「歩きばっかりじゃ、大変だろう」と、空色と白に塗られたツートンカラーのすごく素敵な自転車を買ってくれたんです。それに乗って学校へ通っていました。
クラブ活動はグランドホッケー部に入りました。イギリスの女子校を模範にして日本の女子校では初めて「グランドホッケー部」を創設したそうです。

 おかげさまで、とても楽しい学生時代を送りました。ほんとに嫌なことは何一つ無く、小野学園に入って良かったなって、いまだに思います。





*グランドホッケーの思い出

その頃、ホッケーってかなり費用がかかったんですね。スティックも日本製が無かったので、インドから取り寄せたりしていました。その頃、東京でホッケー部は成城学園と学習院と朝日新聞社女子チームしかなかったものですから、すぐに東京代表になれちゃったんですね。国体には昭和何年だったかなぁ?第5回の国体だったかしら、できてすぐに国体に出ましたら即優勝しました、それからずっと十何年続きましたかね。国体に出て、ほとんど優勝して帰りました。
初めの頃は、学校内で合宿をして練習していました。その後、山中湖畔に「小野学園セミナーハウス」ができ、近くのグランドで合宿練習をするようになりました。
ホッケーをやらせてもらったおかげで、体も丈夫になりました。