大井町の語り部
エピソード5
作詞家・大木篤夫の事
大木篤夫(1985〜1977年)明治28年〜昭和52年 1932(昭和7)年惇夫と改名
昭和9年に日本中で大ヒットした「国境の町」という歌がありました。東海林太郎(しょうじたろう)という歌手が歌いました。
私の父の話によりますと、この歌がヒットした当時、作詞者である大木篤夫氏は大井に別宅を持ち、そこで仕事をしていたそうです。正確な場所は、現在の大井4丁目14番11号と13号の中間あたりで、父の親が貸家として建てた二階屋の一階を借りていたのだそうです。
しかし玄関の表札は「遠山」さんで、上品なお母さんと綺麗な娘さんが二人で住んでいたそうです。
大木氏がいつもこの家へ来て、天気の良い日には南向きの縁側に文机(ふづくえ)を置いて書き物をしている姿を、父は良く覚えていると言っていました。
そして、その後太平洋戦争に入ると空襲を避けるために。町内のアパートや貸家に入居していた方には引越ししてもらうことになったのだそうです。
遠山さん母娘も引越しして、やがて大井の家は大空襲で消失しましたが、門の近くにあった一本の柏(かしわ)の木だけが今も残っています。そのすぐ向かい側にある作守稲荷(さくもりいなり)の大公孫樹(おおいちょう)と共に、戦火を乗り越えて令和の時代を生きています。
エピソード4
大井三ツ又のお地蔵さま
三ツ又地蔵尊
昭和の初め頃のお話です。
現在も大井1丁目55番地には「三ツ又身代り地蔵尊」の小さなお堂が建てられていますが、以前はそのすぐ後ろに茶店(ちゃみせ)があり、おばあさんが、お茶やお団子を出してくれたとの事です。
当時は、馬込や池上方面から農家の人達が荷車に野菜を積んで、青物横丁へ運んで行く途中、池上通りの「お休み処」として利用していたのだそうです。
また、ここには一本の欅(けやき)があったので真夏には陽射しを避けてゆっくり休むことができたそうです。
「スタバ」も「コンビニ」も無かった時代に、暑さ寒さの中、池上通りの長い道程を歩いて行った人達の姿を彷彿とさせてくれます。
エピソード3
大正の末から昭和の初めにかけて
泳法図解より
現在の京浜急行の大森海岸駅の近くの浜づたいに新聞社主催で夏期限定の水泳学校があったそうです。
指導内容は、現在オリンピックなどで見るような四泳法ではなく、日本の古式泳法でした。
古式泳法は、いくつもの流派がありますが、その中の『神伝流』という流派を習ったそうです。この流派には秘伝の『二重伸し(ふたえのし)』という泳法があり、一回のあおり足に、手の掻きを二回行うものでした。
父は『とても速く泳げた』と自慢していましたが、ジェクサー大井町のプールで試してみたら、私は溺れそうになりました。
エピソード2
昭和20年の空襲
東芝病院
現在の東京品川病院は、以前、東芝病院でしたが、それより以前は東芝の工場だったそうです。京浜東北線の線路に沿って、かなり広い敷地を有する大きな工場だったために、その周辺は、第二次大戦中に何度もアメリカ軍の空襲を受けました。
鹿嶋神社本殿の軒をかすめて着弾した爆弾によって境内の大木が燃えたそうですが、近くのお寺などは無事だったので神仏の力かもしれない、と思ったそうです。
また、爆撃機の去った後、防空壕から出てみると近くに靴が片方だけ落ちていたのですが、中には足が入っていて、びっくりしたそうです。町内では、亡くなった方や行方不明の方もいてご遺体の火葬を町内会で行う事もあったそうです。
現在の大井4丁目19番地の空地で、空襲のために亡くなったお婆さんを火葬した時の事を父はよく覚えていました。
その空地だった所には、現在何軒も家が建っていますが、戦時中、人の命にかかわる場所だった事を忘れないでほしい、と言っていました。
エピソード1
昭和の初め頃
大井町の地図
現在の大井4丁目26番地に二階建ての洋館があり、当時は空家になっていたそうです。
ところが、夜中にピアノの音が聞こえてくるので、これを町内の誰かが新聞社へ連絡したらしく『大井のおばけやしき』として新聞記事になりました。
その後、日曜日になると午前中からたくさんの人達が見物にやってくるようになったそうです。
当時は、京浜東北線の線路沿いに歩道はありませんでしたから、見物客は現在のJR大井町駅から大井4丁目12番地の高台(つるつる峠)にある作守稲荷を目標に歩いて来て、現在大井中央病院のある坂を西光寺方向へ下って行ったそうです。
お弁当を持った人も居て、ぞろぞろと行列ができ、その近所に住んでいた人達は驚いたそうです。なお、日曜日ごとのこの賑わいはしばらく続いたとのことでした。