大井町の語り部

山崎さんのお話

【学童疎開そして卒業】

 昭和16年 太平洋戦争(1941年)が効発。当時は大井第一国民小学校でした。昭和20年5月25日 焼度弾が 校舎を直撃し3名の先生が 亡くなったと言うことを忘れないで下さい。
私は昭和10年(1935年)に大井4丁目(旧大井倉田町)に生まれ、現在 大井7丁目(旧大井庚塚)に生活しており ます。現在87歳になりますが この大井町から、一度も離れた事はありません。
小学4年の時、太平洋戦争が激しくなり地方に親戚が有る同期の人は地方に縁故疎開をして、地方に親戚が無い人は学賞疎開でした。大井第一は現在の中央線 日野のお寺で、男子は大昌寺
20〜30名だと思います。(平成5年4月 住職にお会いして当時の懐かしい話をしました。)
女子は同じ日野の宝泉寺でした。又、八王子の竜光寺には昭和7年生まれ 男子、約50名の学童疎開が始まりました。(昭和2081 焼夷弾が直撃し焼失、学童は全員無事だったそうです。)当時、私の姉が寮母とて竜光寺で学童の世話をしておりました。
当時は食料が少なくサツマイモにお米が入っているようなご飯でいつも空腹状態でした。
又、空襲警報が鳴ると夜中でも山の洞窟にある防空壕に(夜中なので田んぼに落ちる事もあり)に避難したものです。東京の空が、真っ赤に見える時もありました。

全員でお寺に寝泊まりしますので、ノミやシラミに悩まされました。中には オネショをしてそのまま布団をたたむので匂いが大変でした。
疎開の最中に母が面会に来てくれました。全員に食べさせられる程持って来られず(オハギ)を裏の山でそっと食べました。とても美味しかった事をしっかり覚えています。
(私達の寮母は大森さんでした)
又、立川 に軍の施設がありB29が空襲になると下から高射砲の花火のような音がしていました。
私は体が弱く5年生の初めころに実家に戻りました。大井町の駅に降りて 踏切の所から大森の方面に帰りましたが 焼け野原で、道の両側は焼けた柱やトタンなどが散らばっていて、道なき道を家に帰りました。
線路から5~10mの強制疎開
 ニコンが軍事工場で現在の東海道線の所から ニコン迄 20m以上あると思われ、強制疎開されて大きな平道ができて、戦後 野球など大人に交じってした思い出があります。
まったく昔の面影が有りませんでした。又 何処の家にも家の周りに防空壕が有りました。
わが家も夜中でも空襲警報が鳴ると防空壕に駆け込んだものです。
B29が5-6機で東京湾から神奈川県の方向に飛んで行くのを昼間の空だと銀色の機体を肉眼ではっきりと見ることができました。

 昭和20年8月15日に戦争が終わり 5年生から学校が始まりましたが、大井第一には、まだ校舎もなく浜川小学校で午前・午後と互い違いに勉強したものでした。昭和23年に私等は卒業式を迎えましたが、まだ校舎もバラックで校舎の下に板を敷いて、その上にムシロを敷いて、当時まだPTAもなく それぞれお母さんたちが、割烹着姿でお祝いに煮物、赤飯などを持ち寄って、卒業式をさせていただきました。(松/森先生、竹/武井先生、梅/桑原先生)1クラス 50名ぐらいの卒業式の写真は浜川小校庭で二宮尊徳が写り、校舎の窓が焦げたり割れたりしています。
当時は食料難で、母親が兄と田舎(確か埼玉)へ行き、お百姓さんに母親の着物などと交換してもらい、そのお米を食べていました。
家に帰る途中で警察官に捕まると、せっかく交換してもらったものを没収されるなど大変な時代でした。
 昭和23年卒業ですので、まだ校歌がありませんでした。24年に当時 岡田一郎さんが知り合いの(北条誠) 様に校歌を作って頂いたと言う話をお聞きしております。
 又、 遊び道具は メンコ、ケンダマ、ベーゴマなどで、ほとんど屋外で遊ぶのが 主流でした。
 GHQのジープがくると「Give me chocolate!」チョコレートやガムを追いかけてもらったものでした。
No More戦争!!!

*同窓会も何回か行っていましたが 5年前ぐらいから、だんだんと同期の友達もいなくなり寂しいものです。
同期で健全な方がおられましたら、同窓会事務局までご連絡ください。