大井町の語り部
倉本さんのお話
西大井は昔は、西大井一丁目、森前、原、金子町とかこの辺が一体になっていたんでしょうか?
そうですね。原町を中心にいたしますと、森前、出石、金子町の一部、伊藤町このあたりが平地、原っぱでした。当時の原町には、お百姓さんの住まいぐらいしかなかったそうです。出石、金子町、伊藤町、森前には民家は少なくて、ほとんどが畑で、あとは篠竹(しのだけ)が伊藤町に生えていたと聞いております。
子供の頃の写真をお借りしてきたんですが・・・
これは鹿島神社の境内ですね。現在の鹿島神社の建造が昭和3年頃だとそうですから、大正の末期か昭和の初め頃だと思います。この写真の消防の皆さんは、森前、原町、出石、金子町在住の方が参加されております。
こちらは、子供時代のお祭りでしょうか?
昭和4~5年ですね。大太鼓の山車は大正14年の10月にできたものです。その隣は神功皇后のお人形さんをのせております。当時は、鹿島神社の祭礼というと宮本、ほかにもいろいろと睦会がありますが、原町には睦会ができてませんで、原若という呼び名でした。その後、十区睦になりまして、原睦になり現在に至っております。
当時は、原の十区睦には御神輿がございませんで、この太鼓とお人形さんの山車を氏子のみなさんで曳いて練り歩いておりました。その時の記念写真です。原町の四つ角のところです。
四つ角とは、現在の文化堂のあたりでしょうか?
もっと東の今、キリスト教会のあるところですね。
注:文化堂の方から来て、大井警察に向かう道の左側に教会があるところの四つ角になります。
さて次の写真・・・
これは原小学校の入学式の写真です。ご参考までに申し上げますと、こちらの助教員(女性)さんが写っておりますが、昭和6年に満州事変の為、担任の先生が出征をされましたので、代用教員のこの方に一年間、教えていただきました。
当時、男女別でございまして、男子が3組。1クラス50人で150人。女子が3組。合計6クラスございました。昭和11年、私が5年生の時に伊藤小学校ができました。その時に男子1組、女子1組がいとう小学校に移りまして、人員が削減されました。この当時、原小学校には1500名の生徒がおりました。
われわれもベビーブーム世代で、大井第一小も7クラスあって、1クラスが58人くらい。ですから、ほぼ一緒ですよね。
そうですね。人数が多かったですからね。
そして、もう一枚・・・
こちらは小学校4年生の時、金沢八景へ遠足に行った時の記念写真です。昭和10年頃でしょうか。
当時は、父兄付き添いで、和服の方も見受けられますね。
そうですね、日本髪を結って。和服の方も多かったですね。
品鶴線についてお願いいたします。
品鶴線がひかれましたのは、昭和6年だそうです。その時に地元の人達と国鉄(現・JR)の方で、駅を作るという話し合いがされたそうですが、満州事変などの影響か駅舎を作るのは、中止になり、結局、貨物列車の線路になってしまいました。
駅舎ができるという前提でしたから地元の人達は商店街を作って待っていましたが、話がつぶれて商店が2、3軒入ったものの成功しなかったそうです。結局、更地になってしまっておりました。現在は、町工場になっております。
昭和12年に日支事変(支那事変、日華事変とも表現)が始まりまして、軍用列車がさかんになりました。兵隊さんたちがどんどん輸送されて、品川駅と大崎駅から戦地に赴かれたということです。
その時に、私は小学校6年生でございました。品鶴線の踏切のおじさんが「これから○時に軍用列車が通るから兵隊さんたちに旗を持って見送ってやれ」と言うんですね。日の丸の小旗を持って見送るというのが2年間くらい続きました。その頃、地元の方も結構、戦地へ赴かれました。知り合いの方3名が、当時の赤坂の一連隊へ(現在の自衛隊の所)入隊されました。加納部隊というのを編成されて軍用列車で戦地へ赴かれました。戦地でその加納部隊、飯塚部隊、布施部隊などは転戦、転戦で知り合いの方2名が戦死なさいました。1名の方は無事お帰りになりました。そういう時代もございました。
今、西大井の駅ができてますけど、当時から駅の建設の話があったわけですね。品鶴線ができたことで町が分断されたんでしょうか?
そうです、分断されましたね。
先ほどのお話で原小学校と伊藤小学校に分かれたということでしたが、線路の向こう側とこちら側という分け方でしょうか?
金子町の一部の方が伊藤町に転籍しちゃって伊藤小学校へ通いました。私のいとこは4人兄弟ですが、3人は原小学校、1人は伊藤小学校と離ればなれになっておりました。
品鶴線が通っておりまして、これが踏切ですね。そしてまっすぐ行く道が滝王子通りです。そして工学通り。地図の左端のところに三菱重工がありまして、日本工学がありました。そのあたりに大きな病院がありました。サイカイ病院。この病院は戦後23年に取り壊されました。全科揃った大きな病院でした。
水車小屋もそのあたりにあったそうです。母の話ですと、この水車小屋は、主に馬込から来た方が野菜を洗ったり、お米をついたりしていたそうです。
地元の人は出石の水神様のところで野菜ものを洗ったりしていたそうです。
この川が玉川上水ですね。これが伊藤町の方から流れてきまして、それが原小学校の裏を通って、今の西大井本通りの前から出石に出て庚塚の方へ行く川が流れていました。そしてこちらの滝王子の方から伊藤学園から宇田川さんのところを通って、セブンイレブンの前を右に曲がり、滝王子の消防署の前を行き、鹿島町の交番の前を通って池上通りの貝塚のところで出石からの流れと合流して海に流れて行ったと。そういう時代があったというわけです。
当時のバスの路線についてお話いただければと思います。
今、お話がありました旧中延学園ですね、あそこが城南乗合自動車株式会社の終点なんです。ずっと伊藤町の・・昭和6年以前は篠谷(しのや)と谷垂(たにだれ)と踏切の道路を境にして分かれてたわけです。昭和7年に東京府東京市品川区になりました。篠谷谷垂が分かれまして、伊藤町という一本になっちゃったんです。昭和6年にバス会社ができまして、先ほどの旧中延学園のところが終点で、ずっと滝王子通りを通りまして、倉田町を出て立会川に向かいます。立会川から元芝へ出て月見台へ出まして、大井町の駅の東口から西口に回っていく。一つの路線ができていたわけですね。一方ですね、こちらの原町の四つ角ですね、このところで右へまわりまして大森の山王、大井の出石と馬込と金子町と接点になっているところなんですね。そこまでバスが出ておりまして、ここに映画館がありました。
不思議に思うのは、この西大井本通りと称しておりますが、このところに水神様があるんです。水の神様で目を洗いますと目の病がなおると・・目が治った方は鯉や金魚を池に放してあげると・・由緒ある水神様があります。で、そこにですね毎月5日と19日が縁日、お祭りなんですが、バス通りに夜店がでるんですが、よく夜店が並びましたところにバスがよく通れたなあ・・と思い出されます。
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