大井町の語り部

倉本さんのお話2


さきほど自己紹介の中で引揚船(ひきあげせん)に乗っておられたとおっしゃっていましたが・・

引揚船で一番初めに行きましたのは、21年4月です。北ベトナムのハイフォン。福井出身の兵隊さん3000人ばかり乗せまして、浦賀に着きました。途中で黒砂糖をなめた兵隊さんが赤痢になりまして、残念ながら亡くなりまして、沖縄と台湾の間で水葬にいたしました。伝染病だということで浦賀で半月ほど隔離されました。
次がニューギニアのケイ島へ食料を積んでまいりました。赤羽の工兵隊のみなさんを2800人ほど乗せました。その時の部隊長が宮城県の伊達男爵のご子孫だそうで、中佐でした。和歌山県の田辺港に入港いたしました。そこで上陸いたしました。
それからすぐ2日後にはマッカーサー司令部から命令がありまして、シンガポールに行きました。シンガポールまで2週間かかりました。そこでインド兵が食べている野戦食を2000食積みました。そして行った先がビルマのモールメン。本当の行き先はラングーンでしたが、船がいっぱいで入れず手前のモールメンで兵隊さんを乗せて帰りました。兵隊さん達は、内地がどうなっているのか心配なので船員さんに同姓の人はいないか?同郷の人はいないか?と歩きながら尋ねておりました。私の知り合いの方が偶然乗り合わせておりまして「お宅は焼けてないから心配ないよ」と申し上げました。そんなこともございました。
シンガポールに着きましてインド兵の食べておりました食料を全部ほどきまして、米は米、カレー粉はカレー粉、ビスケットはビスケットに分けました。それを兵隊さんに分配して配りました。そして広島県の大竹港に着きました。
次には、博多港へ行けということで、博多へ。博多から満州、北朝鮮へ在留邦人を迎えにですね。南の方はほとんど帰られておりました。
満州、北朝鮮からの方達は、みなさん男装しておりました。もんぺ姿に髪を切って。その中にはお子さん連れの方もいました。お気の毒でしたが、5、6才の幼児が栄養失調で亡くなるんです。医務室に行きまして、アルコールで体を拭いてあげて引揚援護局に渡すんですね。そんなことして博多と11時間でいける場所で1週間くらい隔離されました。
それから次が、葫蘆島(ころとう)。中国の大連の南にあるんですが、そこから瀋陽(しんよう)、昔の奉天(ほうてん)ですね、そこから一般邦人の方が乗船されまして。汽車が来るのを待ってるんですが、客車じゃなくて石炭を積むような貨車ですね。それにみなさん乗ってるわけです。船の着くそばまで来まして船に乗りまして、博多へ着きました。

その時に傑作な方がいましてね。日活の女優さんでした。昭和15年にアメリカを経由してヨーロッパに行かれたんですね。ヨーロッパからロシアに渡ってロシアで終戦になって抑留されて、満州に戻ってこられた。「私はね、昭和15年に出発する時には日本郵船の鎌倉丸の豪華船で行ったのよ。まさかこんな船に乗せられるとは思わなかったわ」とおっしゃったので「戦争に負けたので、仕方がないですね」と申し上げたんですが、そんなこともございました。

その頃の船はLSTですか?

リバティです。7000トンの船ですね。

▲LST
次がLSTですね。9075というのに乗りましてね。マニラへ行きました。11月の沖縄の海には、まだ台風が残ってましてね。結構、しけました。それでバシー海峡が渡れませんで、レイテ湾の方へ南下いたしまして、レイテ湾からずっと一周して北上してマニラへ入りました。

引揚船は、やはりGHQからですか?

そうです、マッカーサー司令部からです。それで管轄がシンガポールは英軍なんですね。イギリスの管轄でした。リバティ船には短波は積んでなかったんです。マレー半島とシンガポールの間のジョホール水道、あそこに一等巡洋艦の高雄(たかお)が入ってましてそれが中継してくれました。それで連絡をとりました。
でマニラに着きましたら、昭和22年でしたけれども、日本の船が沈められて煙突とマストが見えるんですね。それを見るとほんとうにくやしくて、情けない思いがしました。
それで引揚船の後は、氷川丸ですね。
北海道、横浜、名古屋、大阪、神戸を定期航路をやってお客様を運びました。
そして、船を降りましてから陸事へ勤めました。そして36年にパレスホテルに入りました。パレスホテルのオーナーは皆さんご存知の阪急の小林一三さんです。44年に姉妹ホテルのグランドパレスができて、そちらへ移りました。オープンの47年まで3年間、設営に没頭いたしました。翌年の48年8月8日が金大中事件です。その時、私は接待をしておりまして、昼食を食べて一階のロビーに降りてきましたら、おまわりさんが大勢いて、急遽箝口令がひかれまして、別室に行くと警察の方とかいろんな方がいらっしゃいました。それから1年間くらい警察の方が来て調べていました。
今では考えられない事件でしたが、そんなことがございました。

最後に倉本さんのお嬢さんがお持ちくださった資料をご覧に入れたいと思います。
「おばあさんとびんぼうどっっくり」という倉本さんのお子さんがおばあさんのお話を聞いて記述されたものです。
おばあさんから聞いた明治38年頃の西大井の地図があります。



おばあさんとびんぼうどっくり


これは、おばあさんのはなしを聞いてまとめたものです。ですから、記念としていつまでも保存しようと思います。歴史として・・・
昭和46年夏休み


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昔の地図(明治38年ごろ)
説明:林が、たくさんあります。その林をつぶしては、畑を作ったそうです。
また、水車小屋に馬込や荏原の方から米をつくためににぎわった所です。


今の地図(昭和46年)
説明:家がごみごみしています。昔との差がこんなにあります。畑・水田・水車・・・という物は、どこにも残っていません。