大井町の語り部

宮原さんのお話

宮原さんは、昭和10年に大井の倉田で生まれ、お住まいでした。

戦前から戦中にかけて

戦前から古い所は、残ってるとこがずいぶんあるんですよ。
たとえば、倉田町で言いますと西光寺さんとかあの辺は、ずーっと助かってるんですよ。
あの、三ツ又の辺は、ぜーんぶ焼け野原になりましたけどね。
たとえば、倉田町で言いますと西光寺さんとかあの辺は、ずーっと助かってるんですよ。
三菱重工跡地・現西大井公園
 大井町には三菱重工の大井製作所(現在の西大井広場公園の位置に)がありまして、戦争中、日本光学(ニコン)では、潜水艦の潜望鏡を作っておりました。それで三菱重工では、あのー、戦車を作ってまして、えぇ、だから完全な軍需工場なんですね。
ですから、秘密なことがずいぶんありました。
それで軍需工場と言うことで爆撃もされて、焼けましたですね。はい。一番最初にですね、大井地区に爆弾がおっこったのは、今の東芝病院の所に昔の ※マツダランプって言ってマツダ電気の大井工場があったんですが、そこが最初です。
ちょうどその時、家におりましたが、ガラスが飛んでものすごい衝撃で腰を抜かしました。すごかったですよ。戦闘機のグラマンなんて言う飛行機でしたね。
グラマン戦闘機

集団疎開

 小学校の4年で、田舎がないものですから、学校の集団疎開で、疎開しました。
品川区の子供達は、山中小学校も原小学校もそうですけど、南多摩の方へ行ったんです。 登戸方面ですね。えぇ。だいたい品川辺りの学校だと隣同士のお寺にいました。大崎の芳水小学校の子供達も、私達の隣のお寺だとか、ほとんど南多摩でしたね。
昭和20年頃で、終戦のちょっと前ですね。それでも、子供心にね、なにしろ家に帰りたくてしょうがないので、晩御飯の時にそぉーっと何人か集めて、登戸から、あの、歩いて帰ってくるんです。大井町まで。
子供のことで、道順だとかわかりませんから、何しろ線路を歩けば着くと思って、登戸から川崎へ出て、川崎から玉川渡って、電車が来ると枕木へぶら下がったりして。そんなような覚えがあります。
まだ小学校の3、4年でしょ?そんな年でも家に手ぶらで帰れないってんで、あの、登戸ですから小さい梨をポケットいっぱい入れて、それで何とか親だとか兄弟にね、食べさせたいと思ってねぇ・・・。
これ、ちょっと弱い話になりますけど・・・。えぇ。
そうして、よ~うやく朝になって、家に着くと、先に先生が来てるんです、迎えに(笑)
そうすると全校生徒の前で、バーンと。体罰なんてね言ってられませんよ、自分達がいけなかったわけですから。殴られたことも内緒ですよ。そんな思い出もあります。



私達のお寺は、登戸の一つ手前の稲城長沼って駅で降りてね、忘れもしない宝蔵院ってお寺でね。もう、ご飯たって、麦を食べられれば最高で、サツマイモの粉だとかサツマイモのつるだとか自分達でとってきて。お芋のいいのは農家の人達ですから。あと葉っぱだとかね、川へ行ってセリをとってきて、アミノ酸の、お醤油だけのお吸い物だとか、そんなでしたね。
子供心に先生がうらやましくてね。100人くらいが本堂に集まって朝食をとる時なんか先生にだけ朝、卵がつくんですよ。あの生卵ってのは、どんな味がするのかと思ってね。それをまた、先生がね、ポォーンと上から割るんですよ。
男の先生でしたね。大人になってから聞くと、寮母さんが、必ず一緒に行ってたそうです。それで、お風呂は一週間に一回です。農家に借りに行くんです。何時から何時までは何班って、1班、2班に分かれて行くんです。10人くらいずつ。
体操の時間でもね、先生が「みんな、動くんじゃない」って言うんです。
「動くと腹が減るから」って()。そうすると体操の時間は、みんなで本堂の廊下へ出てね、シャツのシラミとりです。ざーっといっせいに。すごかったですよ。そんな想いをしましたね。