大井町の語り部
土肥さんのお話
土肥さんは、大井町で生まれ、大井にお住まいでした。
用意していただいた写真を参考にお話をすすめていただきました。
★品川宿(及び品川湊)の推移
●品川の名が文献・史料に登場するのは元暦元年(1184)82代後鳥羽天皇の時代。
●文政4年(1821)大火で品川三宿ほぼ全焼。貴重な資料が多数焼失する。
6尺7寸(203cm)の大女、飯盛り女「つた」が大人気。
弘化4年(1847)大森村の三浦屋、田中藤左衛門が火入れした上等の乾海苔を青緑色に焼上げ「焼海苔」を始める。
嘉永2年(1849)川崎の加藤某が日本橋室町1丁目にのちの「山本海苔店」を開業。
品川・大森産の海苔も浅草海苔と称される。
嘉永6年(1853)異国船渡来により、非常の際は芝金杉から品川18ヶ寺(目黒川以東)沿岸の町屋は立退く様、通達される。
お台場造営が江川太郎左衛門に命じられる。
「品川のお台場の土担ぎ、先で飯食って二百と五十」と唄われる。
500人の人を使ったとして、一日30両、月にすると約1000両が費やされた事になる。
安政5年(1858)異国船来航以来、幕臣等の往来が増えたため品川宿から保土ヶ谷までの東海道の助郷の負担が増し、市人困窮する。
文久元年(1861)5月 英国公使館の高輪東禅寺を水戸浪士15人が襲撃する。
(第1次7月 品川御殿山に各国公使館が建設される。
文久2年(1862)12月 高杉晋作らが御殿山の各国公使館を襲撃する。
慶応4年/明治元年(1868)4月江戸城開城/5月江戸府設置/7月17日江戸を東京とする詔書。
10月13日明治天皇、江戸城へ。
明治2年(1869)朱引内を50区とする。
●明治5年(1872)日本近代史上の画期的な年。
- 太陽暦の採用(12月3日を以て明治6年1月1日とし、以降西暦と一致する)
- 文部省開設
- 国民皆学が宣せられる
- 新橋ー横浜間鉄道開通
- 大相撲の女性観戦許可(2日目から)
- 違式詿違(かいい)条例発布
- 東京日日新聞創刊
- 銀座大火→煉瓦街となる
●明治11年(1878)11月 府が大区小区制を廃し、15区6郡を定める。
●明治29年(1986)頃、好景気による分戸・東京移住・出征兵士帰還等で貸家払底。
渋谷・新宿・王子・向島・品川方面で貸家の新築急増。
明治30年(1987)品川乗合馬車が品川鉄道馬車と改称し、品川~新橋間の軌道輸送を開始。
明治34年(1901)11月 京浜電鉄路線工事に反対する人力車夫200人が襲撃準備するが、警察に阻止される。
明治36年(1903)8月 東京電車鉄道(株)が品川~新橋間で営業開始(東京の路面電車の初め)のちの市電(都電)
明治36年9月 東京市街鉄道(株)が数寄屋橋~神田間、開業)
明治44年(1911)8月 東京市が買収
明治37年(1904)5月 京浜電気鉄道の品川~大森間開通
明治38年(1905)12月 気品電気鉄道の品川~神奈川間開通
●大正3年 (1914)省線 京浜線「大井町線」開業
●昭和7年(1932)10月 東京市が5郡隣接82町村を合併して20区とし、
これを加え35区となる。
(世界第2位 人口497万人の大都市となる)昭和37年 1,000万人を超える。
この年のラジオ契約台数142万台。普及率11%。
昭和9年(1934)9月 銀座通りの歩道の煉瓦石取替え
(当時6・7・8丁目の両側は全て赤レンガであった。撤去したレンガは戸越銀座で使われている)
昭和17年(1942)4月 米軍による東京初空襲。大井5丁目に爆弾が落ちるが不発。
昭和18年(1943)7月 東京都制施行(府と市を解消して都を設置)
昭和19年(1944)8月 学童集団疎開始まる。
昭和20年(1945)3月10日・5月24日 東京大空襲(5月24日大井第一小学校も焼失)
これが、八つ山よりのうなぎやの荒井家と書いてありますが、旧海岸通りへ移転した跡が、ここなんです。
今ここは、うなぎ屋さんぢゃなくなっちゃったんです。
『居残り佐平次』で「荒井の昼飯でも食って行こう」という台詞があります。
ここの坂を上がった所が問答河岸です。