大井町の語り部
合田さんのお話
阪急の昭和28年の広告の文章は当時の新聞広告の内容をそのまま転記したものです。就職の応募するきっかけになったものです。阪急が大井に出てきた理由がこの広告の文章に書かれていました。要約すると「渋谷の町は東横百貨店ができて賑わって町が栄えて行った。それと同じように大井町に阪急ができることで発展させよう。」と言うことが書いてありました。それから大井どんたくはどうしてできたか?と言いますと阪急の社長が文章で残しております。「百貨店が街にできてもそのままでは発展させられない、商売もうまくいかないだろうと言う危惧からなんとか町を賑わすために歌や踊りをする、そしてそれを町の名物にまで発展させよう。それは同時に企業として生業になっていくのではないか?」と言う趣旨でした。
ここで大井どんたくの歌を紹介します。正確には5番まであるんですが3番だけのせておきました。
ここで面白いのは作詞/小沢一郎さんとありますが、当時すずらん通りの商店会の会長をなさってた方です。作曲の宮崎光夫さんを調べてみたんですが、ちょっと調べ当たりませんでしたが、音楽家には間違いないと思います。映画音楽などを書かれていた記憶があります。おそらくこのお近くにお住まいだったから宮崎さんに作曲をお願いしたんではないかと思います。
それでは、阪急の進出について面白い出来事だけを順をおってお話ししたいと思います。
昭和28年に阪急を開店したんですが、元はカネボウの工場の事務所の跡地の1階と2階だけをオープンしました。1階と申しましても線路側の方は建物がありませんで、狭かったんですね。開店当時は狭いスペースだったんです。ところが当時、新聞でも取り上げられたりしましたが、お客様に一番評判が良かったのがパンと牛肉でした。パンの評判がなぜ良かったかと言いますと4階にパンの自社工場がありました。上で作って下へ持ってくるという、今ではめずらしくありませんが、昭和28年当時は町にそんなにパン屋さんが無かったと思うんですね。パンだけではなく洋菓子や和菓子も作っていました。
前回の集いでヒロセさんが和菓子のお話をなさっていましたが、とても懐かしく思いました。
銀座の木村屋さんがそうですが、焼き立てのパンをすぐ出せるという、いわゆるインストアベーカリーですね。
それから牛肉というのは阪急の大阪の本店では戦前、上にある大衆食堂でカレーライスを名物にしていました。その名物のカレーライスの中に牛肉がたくさん入っていました。その牛肉は今でいう神戸牛、委託して育てた牛肉を持ってきて食堂で使い、また販売もしていました。神戸牛はブランド牛で美味しいものですから評判を呼びました。
阪急の食品をご愛顧いただいていますが、今でもそのやり方の名残がありまして、パンを自社で作るとか委託して育てた牛肉を売るとか、お茶ですとか昆布、漬物、カレーの缶詰など全部阪急で作って売っています。そういうやり方で品質が保証できて多少安く販売できるということでご愛顧いただいておりました。そんなわけで今でも多少そのやり方が残っているものもあります。
阪急カレー缶詰の広告
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どんたくについてお話を進めますが、一番どんたくが盛んだったのが昭和52~53年。世の中がバブル期が始まろうと言う時期でした。その時はどんたくも非常に盛んだったんですね。その頃はどんたく推進に携わっておりました。その時のエピソードをお話しいたします。8月のどんたく当日は今日みたいなお天気でした。その年は梅雨明けが遅くてずっと8月まで雨が降って台風が来たりしていました。会場はセッティングしてどんたく会場の準備ができて皆さんスタンバイしていました。当日、やろうか?やるまいか?と商店街の皆さんも警察もどうしようと言う話になりました。4時には決めなければいけない。今だからお話しできますが、私は会社の中で密かに靴を蹴ったんです。紳士靴というのは5回のうち4回は上を向いて着地する。少々の雨ならやると決めていましたので、皆さんの前で靴を蹴って上を向いて着地した靴をきっかけに開催することになりました。おかげで開催時に雨も降らず無事に開催することができました。
その次に昭和29年に第1回の大井どんたくを開催したとあります。場所は今の線路脇のスペースでやったと思います。それほど広い場所ではなく阪急の敷地でやっていました。そこへ芸能人を呼んできて1回目をやって結構、評判が良かった。
2回目、3回目あたりから今のきゅりあんのところにあった公会堂あたりを使いました。広場が結構空いてたんですね。ここへは芸能人も結構呼んでましてなぜそんなに芸能人を呼んでたかと言うと阪急グループは、東宝と姉妹関係にありますので、東宝だとか宝塚の芸能人を呼んできてるわけです。林家三平をはじめ、宝田明、クレイジーキャッツなど有名な方が来ていました。歌手でも当時流行ってたハワイアンの方達も来ていました。それがどんたくの最初の頃です。阪急としては自分たちだけでドンタクをやるつもりは最初からなかったんです。これはやはり町のお祭りに育てていかなければならないという考えでしたので、少しづつシフトを変えて行きました。芸能人中心だったのを町のお祭りにシフトして行ったんですね。そのために30年の最初の頃に商店会の主だった方々と博多のどんたくを見て相談しました。
どんたくのパレード
※合田さんのお話は続きます。