大井町の語り部
合田さんのお話2
その次に昭和29年に第1回の大井どんたくを開催したとあります。場所は今の線路脇のスペースでやったと思います。それほど広い場所ではなく阪急の敷地でやっていました。そこへ芸能人を呼んできて1回目をやって結構、評判が良かった。2回目、3回目あたりから今のきゅりあんのところにあった公会堂あたりを使いました。広場が結構空いてたんですね。ここへは芸能人も結構呼んでましてなぜそんなに芸能人を呼んでたかと言うと阪急グループは、東宝と姉妹関係にありますので、東宝だとか宝塚の芸能人を呼んできてるわけです。
どんたくでの林家三平さん
林家三平をはじめ、宝田明、クレイジーキャッツなど有名な方が来ていました。歌手でも当時流行ってたハワイアンの方達も来ていました。それがどんたくの最初の頃です。阪急としては自分たちだけでドンタクをやるつもりは最初からなかったんです。これはやはり町のお祭りに育てていかなければならないという考えでしたので、少しづつシフトを変えて行きました。芸能人中心だったのを町のお祭りにシフトして行ったんですね。そのために30年の最初の頃に商店会の主だった方々と博多のどんたくを見て相談しました。
例えば高円寺の阿波踊り、阿佐ヶ谷の七夕だとか表参道のよさこい、この近くでは中目黒の銀座通りの阿波踊りとよさこいなど地方の踊りを持ってきて自分の街の名物に育てています。高円寺の阿波踊りなどは完全に根付いています。
その為に人が動く、そういうことをどんたくでも当初から狙っていました。反省も込めて言うと当時は盆踊り風で良かったんですよね。大井どんたくの歌詞にメロディーをつけて、輪になってみんなが参加してゆったりと踊る。そういう形で踊る場合、広い場所が必要になります。当時は今のロータリーのところまで広く使えていました。
そういうことでどんたくも流行っていって、阪急の売り場も1階と2階だけの非常に狭いところから少しづつ広げていきました。
カネボウの古いビルをそのまま使ってましたので、働いてるものにとっても非常に入り組んでわかりにくい売り場だし施設面でも十分じゃ無いところもありました。当初はエアコンもついてなかったんですね。昭和35年の時代はそうでした。当時は売り場で扇風機をまわしていました。そんな時代もありました。少しづつ少しづつ広げていって百貨店らしくなったのが昭和40年頃。この頃に増築を重ねて6階になりました。
道路も完全に舗装されてなくて一部砂利道もありました。ですから雨の日は社員が長靴で出勤して長靴で勤務していました。それから今年はゲリラ豪雨だとか台風だとか雨が大変なようですけど、昭和40年前後も雨の多かった年でした。この地区にゲリラ豪雨みたいなのがきたことがあって、どさーっと降った雨が三又の坂道をザーッと降りてきて全部阪急へ入ってきたんですね。売り場の浸水もくるぶしくらいまでありました。当時の阪急は立会川がすぐそばにあってコンクリートの境がありましたが、その水が地下にあった電気
の施設に入ったら大変なことでした。今は整備されていますが、まだインフラ整備ができてなかった時代にはそんな事もありました。
それから昭和42年に阪急ブレーブス(現オリックス・バッファローズ)の優勝記念がありました。
昭和42年 阪急ブレーブス優勝
ブレーブスという球団がありましたが、なかなか勝てなかったんですが、上田監督が来てから強くなってパリーグで優勝して、日本シリーズでも優勝したことがありました。ところが悲しいことに東京では阪急ブレーブスはマイナーで巨人以外はプロ野球じゃないというところですから、後楽園球場で日本シリーズでヤクルト戦がありました。その時、勝てば百貨店も優勝セールやってお客さんに安くしてたくさん来てもらっていいんですけども。応援に社員は駆り出されていくんですよね。そうすると後楽園球場の99パーセントはヤクルトファン。阪急ファンはほんのわずかしかいない。応援しようが何しようがみんな周りの声につぶされてしまいますね。それより怖いのがうっかり阪急が点を入れようものなら空き缶やみかんが応援席に飛んでくるんです。今だったら後楽園で巨人阪神戦の試合があっても応援は大体半分半分くらい、若干巨人が多いかな?今とは少し事情が違いますが、当時、阪急は東京ではマイナーなチームでした。
※合田さんのお話は続きます。