大井町の語り部

茂木さんのお話

大正13年に大井に生まれ大井育ちで、代々畳屋さんを営んでこられた方です。また大井消防団の一員としても活躍され、町内の生き字引的存在です。
お話の主な内容
戦前の話から現在まで様々なお話を伺いましたが「池上通り」「縁日」「火災」に関連する部分をピックアップしてお伝えします。

池上通り

「池上通り」は現在東品川4丁目から大田区千鳥3丁目までの6.4キロの通りの名前ですが、大井町の中心部を貫いています。昭和11年に拡張工事が行われたため、当時の大井町の町並みを彩っていた欅(けやき)並木が無くなり、茂木さん自体大変残念な思いをされたようです。通りを拡張しても車はほとんど通らなかったので、小学校のマラソン大会が大森との往復2キロのコースで実施されました。
  また、道路拡張に伴って鹿島神社境内も大幅に削られました。そのため奉納相撲が行われていた場所もなくなり相撲ができなくなりました。この奉納相撲は古来から有名な行事のひとつで、素人だけでなく本職の相撲取りも参加したそうです。
「池上通り」には札場(ふだば)と呼ばれた高札場がありました。倉田町のはずれで大井第一小学校へ行く途中の交差点付近にあったようです。札場(ふだば)は町内掲示板の役割を果たし、米の相場や祭りなど町内の様々な情報を提供していました。そこでは大井の名産として人参も取上げられ、大井台地で育った人参は色が良く有名だったそうです。
鹿嶋神社の相撲

▼高札場
高札場(こうさつば)とは、幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所のことです。

▼大井の人参
品川区域でとりあげられているのは、上大崎村の豌豆 (えんどう)、下大崎村の稲・クワイ、北品川宿のネギ、白胡麻、あぶらな、桐ヶ谷村の冬瓜 (とうがん)、下蛇窪村の秋大根、大井村の人参、戸越村・上蛇窪村の孟宗竹筍、などとなっており、当時の特産物であったことがわかります。


縁日

「縁日」は最近では見かけなくなりましたが、大井町の縁日(えんにち)は駅から現在の大井本通りの半ばまでに渡り、1日と15日に盛大に行われていたようです。きっかけは大井町発展の礎を築いた「後藤毛織」の給料が14日と月末に支払われていたことと関係がありました。当時は食べ物、履き物、着る物など買う場所や時間が限られていたため、給料をもらってもすぐ買えませんでした。そこで、※「後藤毛織」で働く人に便利なように「縁日」が設けられました。農閑期には農家の主婦が「後藤毛織」で働くほど地域社会に大きな影響力を持った会社であることからも想像がつきます。
縁日

火災

 大井町の「火災」は大正12年の関東大震災ではあまり火災が発生せず大きな被害を免れたが、先の戦争ではほとんどが消失しました。茂木さんの戦時中の話に焼夷弾対策があります。「竿の先に縄を結んで水につけてはたけば焼夷弾が消える」と教わったそうです。今から思えば滑稽なことですが、当時はまともに取り上げられ、茂木さん自身も「何も知らない人が計画するのは恐ろしい気がする」と感想をもらされていました。
 戦後の火災では、昭和39年7月14日に起こった勝島倉庫の爆発火災が参加者全員の記憶に残っていました。茂木さん自身も消防団員として、爆発によって吹き飛ばされ、九死に一生を得た火災として忘れられない事だそうです。消防職員18名、消防団員1名が殉職され、158名が重軽傷を負う大惨事でした。現場に駆けつけたとき倉庫の管理者が爆発物はないとういうので、安心して消火作業にかかった直後の爆発でした。今でも7月14日にはお参りに行かれるそうです。

後藤毛織
大井町駅を過ぎて左手線路際にある現在の東芝病院(東大井6丁目)の敷地は、その昔は毛織物工場であった。
大井町の開発者としても知られる後藤恕作(ごとうじょさく)は安政5年(1858年)現在の兵庫県で生まれ15歳の時、政治家の森有礼に随行して北京に留学した。そして明治11年(1858年)に帰国すると北京で習得した語学と毛織物の染色技術を使って、当時普及しはじめた洋服の元となる毛織物の製造をはじめた。明治13年共に北京で過ごした加藤書記長が帰国すると、恕作は彼の援助をうけて芝区白金台町に作業員20名ばかりの後藤毛織製造所を創立した。当初はなかなか事業が軌道に乗らず、負債を出した事もあったが、明治23年ころにやっと回復し、工場も白金から大井村(現東芝病院)に移して235名の作業員を抱えていた。さらに明治32年。この頃になると小学生でも洋服を着るようになり、それに伴って工場の敷地は2万坪を超え、従業員も1,200名の大企業となった。しかし翌明治33年の過剰生産恐慌と羊毛の価格暴落から多額の債務を生じ、休業に追い込まれる。そして「三井」の所有となって敷地を縮小しながら、その後カネボウと合併、昭和40年まで操業された。

品川勝島倉庫爆発火災(しながわかつしまそうこばくはつかさい)とは、1964(昭和39年)7142155分に東京都品川区勝島1丁目の危険物保管倉庫で発生した爆発火災事故である。倉庫に貯蔵されていた「硝化綿(ニトロセルロース)」から自然発火、無許可で貯蔵されていたアルコール類等に燃え移り、火災発生から1時間後に無許可貯蔵の「メチルエチルケトン・パーオキサイド」に引火して大爆発を起こした。死者19人、負傷者117名に及ぶ被害を出した。死者19人のうち、18人は殉職した消防士、1人は殉職した消防団員である。本件爆発事故を契機として危険物管理に関する法令が改正され、危険物貯蔵施設に対する行政措置権が強化された。
wikiより