大井町の語り部

山坂さんのお話

山坂さんは、大正13年に大井の仙台坂で生まれ、大井にお住まいでした。

仙台坂、ジェームス坂周辺

 お話と言っても、小学校時代の記録なんて何もありませんし、写真なんかもありませんから自分の頭の中に残っている記憶だけを頼りに思い出をお話していこうと考えております。
まず、小学校時代ですが、私は仙台坂に住んでおりましたから、ほんとは、浅間台小学校なんですが、ゼームス坂を超えた向こうで遠く、とても通えないと言うことで、当時は 寄留というのがありまして、管轄外でも行きたい小学校の区域に戸籍を一時移して、立会小学校へ行きました。
近いですし交通上も危険がないという事で立会小学校に決まったようです。
場所は、現在の立会小学校の所ではなく、現在のヤマダ電機のあるあの一角全部が小学校でした。ですから、品川郵便局のある通りのところまであって、横幅は現在のヤマダ電機のある建物の幅ありました。だから、小学校としては運動場も広かったですね。そのかわり施設はありませんでした。
プールも無いし、講堂も無いんですよ。講堂が必要な時には、2~3教室の壁を動かして、大きな部屋にして使っていました。
御真影が、いつの間にか飾られていて、行事はそこでやっていました。
そんなわけで設備としてはそんなに立派と言うわけではありませんでした。
で、その当時のお話ですが、家内が両国に住んでおりましたものですから、小学校時代の話を聞きますと、立会小学校は、木造2階建てで、冬は だるまストーブだったでしょ、でも両国の方では、当時既に鉄筋コンクリートでボイラーが入ってるんです。
だるまストーブ
すごい格差があったんですね。なぜそんなに格差があるのかな、と思ったら東京は旧市域と 新市域に分かれていて、品川周辺は新市域に入っていて旧市域との差が激しかったようです。
立会小学校で過ごした6年間でしたが、子供の時のことで最初に頭に浮かんでくるのは、旧国道の向こうが埋め立てになって昭和6年頃には、ほとんど出来てたんではなかったかと思います。
旧国道から埋め立ての方へ行くのに、掘割よりもっとせまいドブのような仕切りがありました。
そこへ板が渡してあって、そこを通っていくと言うようなわけで、ほんとに何も無い野原のような状態で、遊び放題遊べる場所でした。
そういう意味では、われわれの年代は、遊ぶ場所には非常に恵まれていて、楽しかった・・。

旧国道周辺の埋立地

今で言うと、旧国道から少し行きますね、あれからちょっと行った所がすぐに埋立です。われわれの遊び場と言ったら、あのへんでした。
今のイオンのあたりも、あれも全部、埋め立て地です。
僕達が遊んでた頃は、ほとんど建物が無くて、あったのは、ガラス工場が一つっきり。
ガラス工場っていうのかガラスの欠片が表に放り出してあったんですよ。
それを拾ってきたりしたのは憶えてるんですけど、はっきり言って何を作ってたガラス工場だったかは、全然わからないんですね。
で、そこへ行っては、近所のガキ大将たちと一緒になって、埋立地ですから釣りができるんですよ。
埋立地の近くに小さな釣り道具屋があって、そこに竹の釣竿を一本預けておくんですね。で、学校から帰ってくると、カバンを置いてすぐに釣りに行っちゃうんですよ。
秋になるとハゼ釣りとか、竿では釣れないですが、ボラですね。
ボラはね、海に 竹ひびっていうね、海苔を取るためのものがずーっと植えられてるんですよ、そこへボラが入ってくるんですよ。それを竿じゃ短くてとれないですから、のっこみという四角い錘のついたものをボォーンと投げ込むんですよ。ブンブン回して。それで引っ掛けて釣るんです。
そうやって釣っても食べるのかというと食べないんですね。ただ、釣るのが面白かったんですね。
埋め立ての岸壁から海面まで高さがあったんですよね。だから、ちょっと降りる・・ということは出来ませんでした。今、行ってみてもそんなに高さは感じないんですが、子でもで小さかったから余計に高く感じたのかもしれませんが・・。
それから、埋立地で面白かったのは、船だまりっていって鮫洲の方からずーっと奥まであったんですが、今は埋め立てられて、当時の半分くらいになってるんでしょうか?
その船だまりでサヨリの子供でしょうか、それが泳いでたんですよ。
岸壁の横をずーっと泳いでますから、見えるんですね。餌は、赤い布をつけてね魚の頭の辺りで上下に動かすと、かかってくるんです。
サヨリっていうより、われわれは ダツと呼んでましたが。
食べた記憶はないですねぇ(笑)。
釣ったのはいいけど。どうしたんだろうなぁ・・。
そう、海苔もとれましたね、埋め立ての所は、ずーっと 海苔ひびが入ってましたからね。収穫した海苔は、鮫洲の所で、干してましたから。
今は、また釣れるようになってきたんじゃないんですかね、昔ほどじゃないにしても。
あさりやなんかも昔は羽田が潮干狩りの名所だったですからね。
船だまりのところへ魚が泳いできたんですよね。
それからアミ!佃煮にするね。手ぬぐいでタモを作って、 アミをすくうんですよ。

浜川周辺

それから、ワタリガニや 蝦蛄(シャコ)を売りに来てましたよ。
飯台かついで。
鮫洲というところが猟師町なもので、あそこで採れた生きた魚を売りに来るんです。
うちのおやじの生まれが九州で生きた魚が食べられるからここを選んだと言っていました。
仙台坂から鮫洲の方って言うのはいろんな種類の新鮮な魚が食べられる場所だったようです。
そんなことで、埋立地で騒いだりいたずらをしながら船だまりで釣りをして遊びました。
でも、泳ごうとすると水上警察がおっかないんですよ。
えぇ、泳いじゃいけない所なんです。
見つかったらたいへんなことになります。
でもまぁ、船だまりですからね。
奥へ入ってますからね、今みたいにモーターボートが飛ばしてくるということもないですから、そんなに波があるわけじゃなし、遊ぶのにはいい場所でした。
一番そこで印象に残ってるのは、夕方になると船だまりに品川の方から 帆掛け舟が入ってくるんですよ。
帆掛船(ほかけぶね)
結構、大きいのが。入ってきて、そこで帆をおろすわけです。
そうすると滑車の音が、カラカラカラカラッとして帆がおりてくる。
それを今でも思い出しますね。
漁をしてきた船でしょうか?
うーん、あれはなんだったんでしょうか・・・結構大きな船でしたけどね。
あれは、品物を運搬する、今で言うトラックみたいなものではなかったかと思ってるんですが。
とにかく大きな帆をあげてました。
よくあの浮世絵にありますね、ああいうのが入ってきてました。
鮫洲のところって言うのはいろんな意味があったようなんですよね。
その帆掛け舟は、小学校をでられるまで、ずっと見てました。