大井町の語り部
津田さんのお話
幅広くご活躍中の津田さんをゲストにお迎えして、昭和初期の滝王子と題して、滝王子地区を中心に、お話ししていただきました。
大井滝王子町の名前の由来
なにしろ滝王子で生まれて、滝王子で育ったもんですから滝王子を中心にお話したいと思います。
大井滝王子町についてですが、大井の名前の由来ですが、大井はもちろんご存知の通り興福寺の裏の井戸、了海上人が産湯を使ったという井戸が起源でございます。それから、滝王子は江戸時代に滝という方の私有地で、滝耕地と言われていた。そこへ滝さんが、お稲荷さんと王子権現を祀ったんです。滝さんが祀った王子権現ということで、滝王子になったと。稲荷神社というのは、五穀豊穣、商売繁盛の神様で赤い鳥居と白い狐がシンボルでございます。権現というのはですね、昔、仏教が伝来して神仏混淆(習合)の時代があって、その思想の中から民衆を救う神として仏の仮の姿として権現なわけです。今、滝王子に王子権現はございませんけども、それが滝王子のもとでございます。大井の稲荷には赤い鳥居も白い狐もありませんけども。
それから、池の中に石が積んである島がありますね、あそこには弁天さまがあったんです。あと、お稲荷さんには、樹齢何百年のタブの木(2018年台風で倒壊)がありましたが、タブの木は暖かい土地に育つもので、だいたい海岸ぷちにあることが多いんですね。あそこにタブの木があるということは、あの近くまで海岸があったんじゃないかと。その一つの証拠としては、大森貝塚ね、あそこは海岸だったんですから、そんなに遠くないから、おそらく近くまで海があったんじゃないかとそういうことも考えられます。
鹿島町の名前の由来
それから、鹿島町の由来については、大井村の鎮守さまとして 鹿島神社があったので鹿島町になったわけですけども、昔は鹿島谷と言ってましたよね。で、あの鎮守さまと言うのは、その村を守る為に軍隊がいた所にその守護神を祀ったのが鎮守なんですね。そこで、住んでた人たちが共同で祀る神様が氏神さまでそのお祭りに参加するのが氏子なんですね。
昭和初期の滝王子通り
私が憶えているのは小学校へ入学した昭和8年頃、その頃に滝王子の通りは舗装されてね。作業員は、コールタールで汚れて真っ黒になった長い前掛けをかけて、どじょうすくいをする時のようなザルで、いわゆる バラスって言って、砕石、石を砕いた1cmから5mmくらいのザラザラしたのを撒いて、それに コールタールをかけて、またバラスを撒いて、コールタールをかけるといういわゆる簡易塗装でした。また、滝王子の通りはお医者さんが非常に多くて、ま、早く言えばクリニック通りですね。大井第一小学校の前が紋谷小児科、それから大井眼科があって大井警察の右側に森永内科、その二、三軒行った先に安沢胃腸科が、あったわけです。それから二軒程先に吉田外科というのがあって、その隣が私の親父がやってた津田歯科。なにしろ、ずーっと医者の通りだったんですね。
▲カーソルをのせると、タブの木の画像が見られます。
札場の名前の由来
高札を立てた場所というのは、江戸から京都へ向かってって大きな辻、あるいは橋のたもとの手前の右側と決まっているんですね。明治29年に全廃されましたけれども、中原街道沿いの旗の台の昭和大学病院の東病棟のちょうど前側あたりに昔ここに 高札があったと言う石碑と立て札を見た覚えがあるんですよ。
※昔は、大井第一小学校前のバス停は札場と言われていたそうです。
品川用水の名残
私の子供の頃には、滝王子の所をくぐる用水が流れていたんですよね。今の伊藤学園の裏の方から、ずーっと来て、昔、武蔵屋の酒屋(今はセブンイレブン)の所から曲がって滝王子の下をくぐって、お稲荷さんの水と合流して鹿島交番の前から鹿島谷へ抜け出るこの道が、幅1.5mくらいある川だったわけですね。夏になると我々は モチ竿(とりもちをつけた竿のこと)を持って、トンボとりをするメッカだったんです。これが 暗渠(あんきょ)になったのはね、昭和10年頃じゃないでしょうか。暗渠になり、広い道になりました。
*品川用水
1666年(寛文6年)、戸越上水が廃止。その後、品川領二宿七ヶ村(北品川宿、南品川宿、戸越村、上蛇窪村、下蛇窪村、桐ヶ谷村、居木橋村、大井村、二日五日市村)が灌漑用水として利用したいと要請。1667年(寛文7年)に許可、1669年(寛文9年)に水路拡幅工事が行われた。wikiより