大井町の語り部
山坂さんのお話2
小学校時代
小学校は、昭和6年に入りまして、昭和6年に何があったかと言うと満州事変が起きた時、小学校が終わって中学校に入った時、また、戦争なんです。これがシナ事変。
中学校を卒業する前の年に大東亜戦争(太平洋戦争)にはいっちゃったんです。
私の世代って言うのは、小学校に入ってから学校卒業するまで、ずーっと戦争、戦争で来ちゃったんですね。
はっきり言って小学校時代ていうのは、戦争と言うのも子供ですからわからないですし、一生懸命、旗を振ったりというような時代でしたから。
ただ、御召列車が東海道を通る時には、立会小学校では、線路に面した教室に白いカーテンを引いていました。位置の関係で列車を見下ろす形になるせいだったからかもしれませんね。
あの2.26事件の時はね、全然わかんないで、子供の長靴がうまっちゃうくらいの大雪の中を立会小学校の校門まで行ったら、『今日、学校はお休みです』って書いてありました。
せっかく一生懸命ここまで来たのに・・・学校お休みかい・・(笑)と思ったんですけど。その時は、なんだかわかんなかったんですよね。
だけど、帰ってきてから親に話を聞いたら、これこれこういう事件があったということでなるほどな・・と思いました。
それから、2日くらいして青山の親戚まで行こうということになって、新橋から 円タクに乗った気がするんです。
それで赤坂を通って行ったんですけど、そのあたりで兵隊さんがいっぱいいるんですよ。これが親が言ってた事件のところなんだな・・と。
鉄砲を3丁、交差して立てて、ずーっと並べてあって、歩哨が立っていてですね、事件の一端を見たような気がしました。
2日ぐらい後でしたから、まだ、ワサワサとやってましたね。
普通の人が通るのは問題なかったんです。
あの時は、アドバルーンが揚がってそれにいろいろ書いてあったらしいんですが、それは直接見たような気がしないんです。車の中からはね。
ただ、へぇ~こんな事があるのかぁ・・・という、なんと言いますか・・・恐怖心までは行かないんですけど、独特の感じがしましたねぇ、その時は。
大森海岸
あと、大森のサワダヤというかに料理屋におやじによく、連れて行ってもらいました。
あそこは2階が広間になってて衝立で仕切って、カニを食べると。
今で言う、食べ放題みたいになってたんじゃないでしょうか?
ワタリガニのような地元で採れるカニですね。
戦後は、サワダヤへ行ったって、海風が、はいるどころではなく、戸を閉めちゃってましたね。
これは、もう東京湾だめかなぁ・・と思ったんですよ。
東京湾で採れた魚を買ったんですが、煮魚にして、食べようと思って鼻先へもってくと、重油のにおいがプーンとして口に入れられるものじゃないんですね。
だから、東京湾全体が廃油でいっぱいになっちゃってたんですね。
東京湾はもうだめだ・・・という感じがあったんですが、最近はきれいになりましたね。
あの辺にいる方に聞いたんですが、あのあたりで釣りをするとボラが釣れるんだそうです。
で、臭みも何も無いので、今は、調理して食べられるそうです。
今から60年の間にすっかり様変わりして良くなったということですが、住んでる住民の方や入ってくる船、みんなが努力した結果でしょうね。
一回、壊れかけたものが再生したっていうのが、東京湾の姿だと思うんですよ。
浜川周辺
それと、もう一つ。 お会式。10月12日の。池上のお祭り。
今は、もうほとんどトラックで、ビューっと行っちゃうらしいんですが。
昔は、全部、品川の八つ山に東京の方から来た人が集まって、隊列を組んで、ずーっと京浜国道を歩いてきて、青物横丁から仙台坂を上がって、大井の池上通りへ出て、池上まで歩いて行ったんですよ。
長い道中でした。うちがちょうど、仙台坂にあったもんですから、10月っていうと大きなみかんの木に実がなるんですよね。
まだ、真っ青なんですけど。食べられるのかなぁ・・?
と思うんですけど、ドンツクドンツク行列で坂を上がってきて、みかんがなってるのを知ってる人はみかんを採って食べてました。
おそらくのどがかわくんでしょうね。
お会式の時っていうと、必ずそういう方が何組かいらっしゃいました
万灯(まんどう)を人が持って。
しだれ柳みたいになった枝に紙で作ったお花をたくさんつけてね。
最初は、今みたいなバッテリーの照明じゃなくて、ろうそくを使ってたんですね。
その時は、お花に燃え移ったりして火がついちゃうんですね。
一瞬にしてばぁーっと燃えちゃうんですね。その後で、今みたいにバッテリーでやるようになったんですよ。
最初は、かついで、その後はリヤカーにのせて・・。
今は、トラックで本門寺のきわまで行っちゃって、あそこから行くみたいですよ。
あの頃はね、ちょうど10月でしょ?
まぁ、今の10月って言うとあったかいでしょ?
あの当時は寒かったんですよ。
当時、着ていた着物を持ってきたんですが、羽織と袷(あわせ)の着物です。
まぁ、親が九州なものですから、久留米がすりです。