大井町の語り部
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大井町2
大井町の特徴
大井町は震災の後、人口が増えます。平塚村耕地整理記念碑の碑には『帝都に隣接したこの地に震災後多くの人が移住した。数千の民家しかないところに何万もの人が移り住み』と記されています。人口増加に伴い企業が増え、町が広がります。畑は消え,工場ができアパートが増え労働者の町に変わります。
『大井町!萩原朔太郎』より
貧しい人の群で混雑する、あの三叉(みつまた)の狭い通りは、ふしぎに私の空想を呼び起す。小さな郵便局の前には、大勢の女工が群がって。どこへ手紙を出すのだろう。黄色い貯金帳から、むやみに小銭をひき出してる。空にはいつも煤煙がある。屋台は屋台の上に重なり、ぬかるみのひどい道を、幌馬車(ほろばしや)の列が連なってゆく。そんな町でした。
こちらは竹内重雄さまの描かれた 大正時代の大井町です。多くの作品の中から選ばせていただきました。後藤毛織の煙突と東海道線の蒸気機関車が描かれています。
大井町の発展に欠かせないのが後藤毛織です。
後藤 恕作(ごとう じょさく)は、後藤毛織製造所(後に東京毛織)の創立者で、明治25年より250名にて営業。大井町の開発者でもあります。
従業員1200名、鐘紡と合併、昭和40年まで営業。各所に見られるレンガ壁が工場跡を物語っています。駅に運ぶレールが大井町を印象させる絵ですね。大井の光学通りは、4日と晦日に縁日があり後藤毛織の給料日と重なり、日用品の売店が並びます。踏切から改正道路(中道り)に並び、お地蔵様の縁日と共ににぎわい有名でした。
縁日通りの外れに豪華な(心中円/しんじゅうえん)と言う後藤毛織のお城のような別邸が布施靴店の前にありました。
大井町の名所めぐり、皆さまはどんなところを挙げられますか?
◉巡りのはじめ
中国にルーツを持つ福禄寿を祀る神社(大井蔵王権現神社)にまずお参りします。
元は大井の原にありました。スズメが群れる沼地で大井国鉄車両用地の中の権現山にありました。
(智恵子の碑)
JR線路沿いの桜並木を東京方面に路地沿いを歩きます。ローソンの手前を左に曲がります。坂をどんどん下がると石碑があります。その石碑は高村幸太郎の妻 智恵子の慰霊碑「レモン哀歌の碑」です。詩集『智恵子抄』で有名な高村光太郎の妻智恵子の終焉の地で戦後、ゼームス坂病院跡地に「レモン哀歌の碑」が建てられました。
昭和16年 光太郎詩集「智恵子沙」刊行 日中戦争のさなかです。
このころの日本は大不況でブラジルに行こうか満州に行こうかと食糧危機の暗い世相のさなかで純愛を描いた智恵子抄は大変な人気となりました。戦後、千恵子のお話は映画やテレビドラマ、お芝居など多くの人々に親しまれました。特に映画では多くの歴代のスター(原節子や岩下志麻など)が演じました。そして純愛にあこがれた多くの乙女たちがこの場所を訪れました。当時は全国各地から訪れた女子学生が大井町の駅に、あふれたとのことです。
昭和13年 52歳で10月5日夜、
光太郎にみとられながらその生涯を終わりました。
昭和16年 光太郎詩集(智恵子沙)刊行。
太平洋戦争開戦。