大井町の語り部
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大井町7
◉この後は地区のお話をさせていただきます。
前回のイベント時に震災の体験についての質問がありました。聞いた話になりますが大井町は被害が少なく倒壊した家屋は少なく液状化も無かったそうです。水神下のおじさんの話では津波は東海道線の線路まで来たとのことですが池上通りには上がりませんでした。地震には強い土地のようです。大森も高台の別荘地でしたので良いのですが荏原や平塚では倒壊した家もあったそうです。
▼これより大井町の歴史を探ります。
大井町は今後、新たな施設が建設され都市開発が行われます。
大井町大規模開発によって2025年に大変身。
2025年2月現在、進行中の再開発プロジェクトは大井町駅の北西の広町地区である「OIMACHI TRACKS(大井町トラックス)」です。
OIMACHI TRACKSは「大井町駅周辺広町地区開発」を基におこなわれており、2026年3月の開業に向けて商業施設・オフィス・ホテル・賃貸住宅の複合施設を建設中です。
・戦後の大井町の変化を見てみましょう。
さて名所めぐりの後は近代の歴史をご紹介します。
終戦後の大井町の様子を調べましょう。
大井町も新しい施設が誕生します。
後藤毛織の後の鐘紡の工場跡地に阪急が出店します。
捕虜収容所に競馬場が平和島にできます。
それらが戦後の復興資金となります。
多くの海苔船の船溜りは品川水族館と競艇場になりました。
昔の大井町には、大丸、白木屋、三越などが出店、マクドナルドの2号店、
多くのアパートが立ち並びます。
都心に通う便の良さ、娯楽場と飲食街が広がりました。
大井町は新しい街に変わりました。昭和57年に補助陸橋が完成。駅前の渋滞もなくなり街頭テレビ、どんたく祭り、多くの映画館、ギャンブル場など繁華街が広がります。杯一(パイイチ)などの有名なお店やキャバレーができます。
活気のある大井町は昭和の繁栄の中、乗降客が増えていきました。
▼大井町の年表
大井第一小学校も創立150年となりました。
倉田町にいらした勝浦様のおつくりになった年表を参考に見てみましょう。
勝浦様には品川たんけん隊のゲストとしてお出でいただきました。
昭和2年東急大井町駅
昭和25年 大井の競馬場開設です。
昭和29年に大きな火災があります。
昭和61年に西大井駅開業です。
ここからは旧地番による大井の街を見ます。
昭和22年(1947年)3月15日、当時の(旧)品川区と荏原区が合併して成立した。以下明治時代初期から品川区成立までの行政区画の変遷について略述する。
昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。品川区の前身である旧品川区と荏原区はこの時に成立したもので、品川町、大井町(旧大井村)、大崎町(旧大崎村)の区域が品川区、荏原町(旧平塚村)の区域が荏原区となった。
昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。
この時、品川区、荏原区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、前述のとおり、これら2区が合併して新しい品川区となった。寺下町は昔あった万福寺から見てなづけられたものです。一本松は鈴ヶ森の海岸にありました。
▼地名変化
「鈴ヶ森」《南大井二・三丁目の一部》
磐井神社に鈴石とよばれる石があり、社の森を鈴の森又は鈴ヶ森とよんでいた。
「鎧町/鎧ヶ淵」《大井一丁目》
天文七年(1538)上杉憲政が北条氏康とこの地で戦い多くの鎧武者たちが討ち死にして川を埋めたと言い伝えから鎧ヶ淵と呼ばれるようになったといわれている。
「山 中」 《大井三丁目》
森に囲まれていたために山中と呼ばれた、また、盗賊山中段九郎が住んでいた説もある。
「倉 田」 《大井四丁目》
昔、大井郷の蔵があつたために、その名がついたといわれる。
「三ッ又」 《大井一丁目》
かつての上立会橋と中立会橋をわたる池上道が合流する地点。三叉路になっていたため三ッ又と呼ばれた。
「滝王子」 《大井五丁目》
この地に滝氏と言う長者が住んでおり、王子権現を稲荷の相殿とし祭っていたので呼ぶようになった。
「出 石」 《大井七丁目・西大井三丁目の一部》
起源は不明、元禄の検地帳に出石耕地と記されていたといわれる。
「森 前」 《西大井一丁目》
この付近には稲荷森と荒神森があり、古来から「森」と呼ばれた。
「原 」 《西大井二丁目》
この一帯は台地状になっていて、地形から付けられたものと考えられる。
「金 子」 《西大井二・四丁目の一部》
昔、金子左近という長者が住んでいたというのでこの名が残っている。
「庚 塚」 《大井七丁目》
池上道沿いに庚申塚があり、金塚あるいは庚塚と呼ばれていた。
「伊 藤」 《西大井五・六丁目の一部》
元、谷垂・篠谷と呼ばれていたが伊藤博文の墓所があることから改称した。
昭和37年の写真です。
東急のホームが見えます。
横断歩道は同じですね。
イトーヨーカ堂の所がまだ空き地ですね。ビルの完成は平成9年4月でした。