大井町の語り部

中島さんのお話1

 思い出すままに台本なしでお話させていただきます。昭和8年生まれでございます。昭和14年(西暦1939年)あたりを中心にお話させていただきます。
歴史を振り返りますと、縄文時代、今から3000年以上前からこの土地には人が住んでいたと、それで大森貝塚は発見されたということです。
切畑の地下道手前

それから更にくだりまして奈良時代には奈良の都から常陸国(ひたちのくに)あたりに行くのに、ここの池上通りがメインの通りだったようです。その遺跡は品川歴史館にも残っておりますし、とにかく人が住むには非常にいい場所だったと言うことです。水害も無いし、あるいは津波にも耐えて現在に至っているということでございます。
で、ついでに戦争のことを言いますと線路の向こう側、今の南大井は、ほとんど焼け野が原になったのに、こちら側は山王から大井までは進駐軍が良い家を残したいと言うことだったと思いますが、ほとんど焼けていません。戦災にあったのは、大井第一小学校と今の東急バスの操車所のところにあったアパート、そのくらいではなかったかと思います。その様にいい場所だったのが、大井鹿島町、今の六丁目でした。

鹿嶋神社(品川区大井町)
それから、鹿嶋神社はだいぶ古くて西暦969年日本の年号で安和元年(あんながんねん)から、ふるいお社(おやしろ)で1969年には鎮座1000年祭をやったと言う神社でございます。武甕槌神(たけみだづちのみこと)、戦争の神様です。常陸国、茨城県の鹿島神宮から奈良の春日大社に鹿と飛んで行ったというお話です。当時、茨城空港なんかありませんから、どうやって飛んでいったのかわかりませんが、ここを通ったことは確かな様です。

武甕槌神・・・鹿嶋神社(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。雷神、剣の神様とされ、相撲の元祖ともされる神様である。wikiより

大井第一所学校旧校舎
それから、明治時代になりまして学校ができたのが明治8年、鉄道の開通が明治5年ですが、大森駅が開業したのも明治8年。
大森駅と大井第一小学校は同じ年の生まれということになります。ということで、この学校は非常にいい場所に開校をして当時は来迎院の境内だったようですが、現在に至っているということです。

いろいろ学校も変わりました。後からできた原小学校もなくなってしまいましたが、大井第一小学校は、未だに長く続いています。当時から、組みの名前が1組、2組ではなくて松、竹、梅、雪で4クラス。一年先輩は、5クラスあって月組がありました。戦後は多勢増えたので花組、星組、と7クラスぐらいありました。今は、なぜか松、竹、梅、月ということで雪が消えたということになっております。
モース博士胸像
大森駅開業の翌年1877年、モース博士が横浜に着きまして、横浜から汽車に乗って新橋に向かう途中、たまたま崖のところに貝塚の遺跡を発見したということです。もし、大森駅ができてなかったら、汽車が高速で走っていて見にとまらなかったかもしれないし、モース博士が海側の席に座って東海道の松並木を眺めていたら、貝塚の遺跡も発見できなかったと言うことです。大森駅を発車してすぐで非常にのろいスピードで走っていたのと、博士が山側の座席に座っていたので発見できたと言うことです。日本の考古学がそこでスタートしたということです。大森駅のホームには日本考古学発祥の地と書かれた記念のモニュメントが建っております。
大森駅貝塚のモニュメント