大井町の語り部
中島さんのお話4
それから、バスですが、池上通りにはバスは走っていませんでした。大森駅から池上の方へは頻繁にでてましたけれども、大井町からのバスは城南自動車という会社が京浜国道へ出て立会川から坂を登って、低いガードをくぐって第一小学校の裏の交差点に出てくるコースでこの停留所は札場(ふだば)と呼ばれていました。多分、高札場があったんだと思います。その先は朋友学園のある馬込町の終点と原町で分かれて、今の馬込銀座の裏を通り、大森山王とそんな系統のバスが走っていました。戦争中にようやく大井町からこの札場まではバスが走るようになりました。この鹿島神社の前をバスが走ったのは、終戦から何年か後でございます。池上駅から東京八重洲口まで、トレーラーバス、運転席と乗客のいるところが分かれていて、大型のバスが三ツ又の狭い通りを通っていました。客室の方はドアが2つあって車掌が2人乗っていました。今では考えられませんが、運転手さんと車掌さんが2人という懐かしい思い出でございます。
それから、大井六丁目、鹿島町は鉄道でもって南大井と分かれております。少し鉄道の話しをしなければと思います。明治5年に日本で初めて汽車が開通しました。最初は、桜木町から品川まで、その後、新橋、汐留まで延長して大正時代には電車が走りました。東海道線も丹那トンネルが1934年(昭和9年)にできまして電気機関車が東京から沼津まで行きましたが、貨物列車はSLでした。
ここにもD51が走りました。その都度、我が家は揺れて関東大震災を経験している祖父は汽車が通るたびに慌てていたのを記憶しています。
また、お召し列車が通る時には、警察官が大勢来て、直に見てはならんとお達しがあって、ほんの戸の隙間から拝見したものでした。
今の京浜急行、最初は大師電鉄、関東で初めて電車が通ったと、これが川崎駅の人力車に阻まれたんで、六郷に鉄橋をかけまして大森駅の海岸口が始発駅で明治34年から昭和12年まで大森駅から大森海岸、学校裏(今の平和島)を経て、川崎手前の六郷橋へと、川崎大師へ行くメインのルートだったということです。
その後、京浜電鉄も品川まで延長をして東京市電と乗り入れをすることになりました。昭和12年に線路を廃止する時は、家族で乗り納めに行った記憶がかすかにございます。東海道線は日本第一の大動脈です。特急富士号、桜号、これが下関まで、燕ツバメと鴎カモメは神戸まで走っておりました。特急が走るのは東海道線だけ。しかも富士号は流線形の電気機関車、のちのムーミンと渾名がついた機関車です。
それは3等車、食堂車、2等車、1等車、展望車まで付けて、毎日、午後3時10分ごろ下関に向かって下っていくとその列車が3時半ごろ、上りで帰ってくるんですね。子供心に日本列島のほとんど果ての下関という遠い所へ行ってわずか17分で帰ってくるとは、すごい速さだなと思っていたら、前の夜に出た列車だったということで。現実には鶴見あたりですれ違っていたということです。流線形の機関車で展望車があるというのはそのまま帰ることができません。東京駅に着いたら、どうやって回転したか?大崎駅へ回走をしてバックで蛇窪へ(今は湘南新宿ラインが通ってる)そして下神明の下の信号の所まで来て、それで逆戻りをして東京駅へ戻って、それで向きが変わったわけです。それを見に行った記憶もございます。もしかしたら、蛇窪へ来てから大崎へ行ったのかもしれませんが。
それから、京浜東北線、当時は省線と言ってましたね。省線は国鉄になり、今はJRですね。京浜東北線も昼間は4両ですけどラッシュ時には6両8両と増結をして頻繁に運転をしております。大井町の駅ができたのは大正時代になってから。大井村から大井町になった直後に開業したと聞いております。岐阜の方に大井と言う駅(現在は恵那)があったので大井と名付けられなかったようです。今は大井町線もあり、りんかい線は川越まで直通で行けるようになりました。大井工場では車両の修理、山手線の車庫、お召し列車の保存などをしております。大井町は鉄道とたいへん縁の深いところです。今の品川歴史館の線路寄りの所は鉄道官舎と言って国鉄、当時の省線のお役人がたくさん住んでいました。遺跡庭園の所も大井工場の従業員の寮になったということです。新幹線もJR東海ですが、ご存知でしょうが、品川駅は品川区ではございません。隣の港区です。そのかわり目黒駅は品川区です。